吉川友の噂

(ここにいらっしゃい。)
 と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越 え、跳越え、倒れかかる蘆 を薙立 てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆 した。線路から眺めて水浸 の田は、ここだろう。……
 が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐 が上げているんだから流れはせん。薄い水溜 だ、と試みに遣 ってみると、ほんの踵 まで、で、下は草です。結句、泥濘 を辷 るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥 しい、畦 が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
 早や暗くなって、この田圃 にただ一人の筈 の、あの人の影が見えない。
 浜で手鍋 の時なんかは、調子に乗って、
(お房さん。)
 と呼んだりしたが、もう真 になって、
(夫人 !)
 と慌てて呼んだ。
(はーい。)と云う、厭 に寂しい。
 声を便りに駈戻 って、蘆がくれなのを勇んで誘い、
(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)
 誰も落着いてはいないのを、汝 が周章 てて捲立 てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。

よりを戻す 男心

愛華みれについての説明・解説する

十日市という川向かいの町はずれに借家住居していられたが、七つ、八つ位な可愛らしいお嬢さんを連れて路ばたで遊ばしていられるのを時々見た。そのお嬢さんも先生そっくりのおでこ だったが人形のように美しかった。
 もしこの先生ともっと深く触れ合い、また何か出来事でもからんで、先生の人間性のもっと全面にじかにぶっ突かるような事でもあったら、私もよ程大きな影響を受けたに相違なかった。しかし本意なくも先生は私が尾道から帰って、二度目の三年生の二学期からやり出した時には、もう学校を去ってしまわれていた。私は鶴が飛び立ってしまったような空虚さを感じた。その後先生にはお目にかかる機会もなく年月は過ぎてしまった。
 が私が二十七歳のとき、はからずも先生から「出家とその弟子」を読んだよろこびと、見舞いとのお手紙が届いた。私は昔を思って喜びとなつかしさにつつまれ、人生の不思議と人の心の感応とを思い、結局はひとつの生の悲しみ――運命の意識にとらえられて行くのであった。私はちっとも知らなかったが先生は東城という北備のとある城下町の浄土真宗の由緒ある寺の住職であったのであった。
 僧としての先生は清沢満之の流れを汲む浄土真宗の信者であったのだ。

津和野ホテルについての説明・解説する

下より見るべからず。一郷の人は一郷の眼を以て見るべく、一国の人は一国の眼を以て見るべく、天下の人は天下の眼を以て見るべし。」
 是等の言葉は湖州によれば、いづれも史上の人物に対する観照の態度を述べたものである。けれども湖州は古人にばかり、かう云ふ観照を加へたのであらうか? いや、徳川家康をも冷眼に眺めた大久保湖州に唯史上の人物にばかり、かう云ふ観照を加へろと云ふのは出来ない相談ではないであらうか? 水谷不倒の湖州君小伝によれば「君、(中略)人に接するや寛容にして能く客を遇す。故に君の門を叩くもの日に絶えず、而して客の種類を問へば、概ね未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家等あり。」だつたさうである。未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家などと云ふものは勿論書生だつたのに違ひない。湖州は必ず是等の人々に独特の烱眼を注いだのであらう。

胸が大きくなる方法

ホテル川についての説明・解説する

寺院の内部は闇で、その闇は戸の外に溢れ出るかと思うほど濃かった。その闇の中から一人の男が現われた。十歳の童女から、いつの間にか、十八歳の今のクララになって、年に相当した長い髪を編下げにして寝衣を着たクララは、恐怖の予覚を持ちながらその男を見つめていた。男は入口にうずくまるフランシスに眼をつけると、きっ とクララの方に鋭い眸を向けたが、フランシスの襟元を掴んで引きおこした。ぞろぞろと華やかな着物だけが宙につるし上って、肝腎のフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐ろしい衝動を感じてそれを見ていた。と、やがてその男の手に残った着物が二つに分れて一つはクララの父となり、一つは母となった。そして二人の間に立つその男は、クララの許婚のオッタヴィアナ・フォルテブラッチョだった。三人はクララの立っている美しい芝生より一段低い沼地がかった黒土の上に単調にずらっ とならんで立っていた――父は脅かすように、母は歎くように、男は怨むように。戦の街を幾度もくぐったらしい、日に焼けて男性的なオッタヴィアナの顔は、飽く事なき功名心と、強い意志と、生一本な気象とで、固い輪郭を描いていた。そしてその上を貴族的な誇りが包んでいた。今まで誰れの前にも弱味を見せなかったらしいその顔が、恨みを含んでじっとクララを見入っていた。クララは許婚の仲であるくせに、そしてこの青年の男らしい強さを尊敬しているくせに、その愛をおとなしく受けようとはしなかったのだ。クララは夢の中にありながら生れ落ちるとから神に献げられていたような不思議な自分の運命を思いやった。晩かれ早かれ生みの親を離れて行くべき身の上も考えた。見ると三人は自分の方に手を延ばしている。


復縁方法