吉川友の噂

(ここにいらっしゃい。)
 と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越 え、跳越え、倒れかかる蘆 を薙立 てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆 した。線路から眺めて水浸 の田は、ここだろう。……
 が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐 が上げているんだから流れはせん。薄い水溜 だ、と試みに遣 ってみると、ほんの踵 まで、で、下は草です。結句、泥濘 を辷 るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥 しい、畦 が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
 早や暗くなって、この田圃 にただ一人の筈 の、あの人の影が見えない。
 浜で手鍋 の時なんかは、調子に乗って、
(お房さん。)
 と呼んだりしたが、もう真 になって、
(夫人 !)
 と慌てて呼んだ。
(はーい。)と云う、厭 に寂しい。
 声を便りに駈戻 って、蘆がくれなのを勇んで誘い、
(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)
 誰も落着いてはいないのを、汝 が周章 てて捲立 てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。

よりを戻す 男心